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ジーナちゃん専門ブログ

映画 龍三と七人の子分たち

【監督、脚本】北野武
【撮影】柳島克己

『龍三と七人の子分たち』観ました。
久しぶりのオフィス北野。

感想
Filmarksにも書きましたが、アプローチの仕方がより「映画的」になっています。
肩からの切り返し、空撮、説明的なカメラのパン、心情を表現する照明、「音」から来るギャグなど。
問題はそうしたこと自体ではありません。
むしろ上のような手法は、多くの映画において普通に行われていることです。
惜しむべくは映画を「破壊する」立場にあった北野作品が、そのような「映画的」な作り方を覚えて普通になってきていることです。
居酒屋、オフィス、車内…おなじみの狭苦しい世界に加え、龍三たちの拠点がアパート。
アウトレイジ』からどうも洗練されてない印象があるシネスコ画面ですが、このような閉所を配置していくのは性向なのでしょうか。
登場人物の集まる動機が全て過去に向いているため、ストーリーにおいて7人も仲間がいながら印象がほとんど残らず、その辺は脚本の失敗だと思います。

北野武
座頭市 : ZATOICHI』での金髪の座頭市、『アキレスと亀』の中年主人公など、
それ自体が異常であるにも関わらず、何もおかしくないように見えてしまうのが、北野武の配役。
そんな彼が警察という権力の上に立っている、これがなかなか珍しい。
無論、武は他作品で刑事を何度か演じているのですが、
劇中において武がジジイたちをしょっ引くなど、職業としての行為から決して脱することなく、
北野武が演じている警察というのは、全くおかしくない。
おかしくないのが異常という、これまでの逆パターンです。

逃げる車と追いかける車
作品の性向とはあまり関係がないようにも思えますが、
その男、凶暴につき』で車が逃亡者をはねる辺りから、車を走らせては突っ込む歴史が始まっています。
他にも『HANA-BI』『アキレスと亀』のような旅立ちに用いられたり、
『みんな〜やってるか!』のような、車それ自体がマクガフィンとなる作品も存在するように、
北野作品の車は、映画を終結させるために何かにぶつかったり向かっていきます。
『龍三』は、その点では異質でした。
何しろこれらの役割に当てはまらず、ただ画面の外に「逃げる」車が登場したからです。
そのうえ最後になると、「逃げる」車がUターンして「追いかける」車、
つまり従来の「向かっていく」車に突っ込んで、話を終結させてしまうという奇妙な現象が起こっています。
ただし、そのような奇妙な現象というのは、他作品との比較の範疇であって、乗り物自体は特に奇妙でもなかったりします。それは他の北野作品においても言えます。

空飛ぶ乗り物
『龍三』での懸念だったのが、飛行機による空撮です。
先にも少し述べましたが、北野作品の乗り物というのは、作品のメチャクチャな常識に反して普通だったりします。
車が常識から外れてしまうのは、『やってるか!』の、ブレーキのきかない車がモンタージュによって空を飛び看板を突き抜けるショットぐらいで、後は物理に従っています。
ソナチネ』『Dolls』『アウトレイジ』などのように、ヤクザの抗争として殺す・殺されるために存在する車というのもありますが、基本的には車が空を飛んだり、何らかの儀式的行為で用いられることはありません。
北野作品が映画において壊せていない部分はそこだったりします。
ですから『龍三』の空撮は不安でした。飛行機が飛ぶというのは、車の機能が飛行機に委ねられただけに過ぎないからです。
そこを壊してないのならば、乗り物が変わっただけで本質的には意味がない。
残念ながら、常識を守り続けたまま映画は終わってしまいました。


世界のキタノが映画を覚えてしまったら、一体どうなってしまうんだろう?
というちょっとした疑問に答えてくれた作品です。